Kの手記


 自分(Kのこと)は養家から受けた恩は大変有り難く思っています。医者にしたいという養家の期待を裏切ったことは誠に申し訳ないことでした。しかしながら、自分はどうしても人の道を究めたい衝動を抑えることはできませんでした。明治という時代は、日本が近代国家として世界の仲間入りをする時代であり、個人も己の自由と独立を獲得する時代でした。完全な理想的な自我を心に描き、その実現に努力しようと思いました。自分も養家や実家から勘当されることを覚悟で自分の道に進むことを選びました。その結果、経済的に困窮し、精神的にも追い詰められました。しかし、養家や実家すら捨てたのですから、道のためには、あらゆる恋は勿論、すべてを犠牲にすべきものだいうことを第一信条にして精進してきました。

 そんな時、幼馴染みの君(私のこと)が色々と世話を焼いてくれ、君の下宿に来ないかと言ってくれました。経済的にどうにもならない所まで追い詰められていた自分にとっては大変有り難い申し出でしたので、世話になることにしました。君には大変感謝しています。無二の親友と信じています。その気持ちは今も全く変わりません。下宿には奥さんとお嬢さんがいましたが、下宿した当初は全く関心がありませんでした。

 神経衰弱であった自分の心は次第に和み、気持ちの上で少し余裕ができ、自分の道の追究に専念できるようになりました。君とは良く、学問だとか、将来の事業だとか、修養だとか堅い話ばかりしていました。友達のいない自分にとって、こんな話ができるのは君しか居ませんでした。君にとってはさぞ迷惑だったでしょう。君は人間らしい生き方を求める個人主義を信条としているようでした。君は盛んに恋愛について実際的な話をしていました。それは自分の心を和らげようとしてくれていたのと同時に、その頃から、お嬢さんのことが好きだったのですね。房州の旅行した時、君に「精神的に向上心のない者は、ばかだ」と言いました。これは自分の信条を述べただけの積もりでした。しかし、今から思えば、あの言葉が君をひどく侮蔑してしまったのですね。当時の自分は、完全主義すぎたのかもしれません、厳格すぎたのかもしれません。それは自分の修行が足りなかった未熟さから出たものとして許していただくしかありません。

 精神的に余裕ができると、心に隙ができるものです。君のいう人間らしい生き方という言葉が私の心に住みつき出しました。すると、今まで気にならなかったお嬢さんの存在が少しずつ気になりだしました。お嬢さんはそれまで全く女性と縁のなかった自分にとって、身近にいる唯一の若い女性であるお嬢さんの存在は刺激的でした。今から考えると、君が自分の心を和らげようとして、お嬢さんに自分に親切にしてやるように頼んだからでしょう、お嬢さんは用もないのに何度か自分の部屋に来て、どうでもいいことを話しかけてきました。自分はどう返事していいものか戸惑ってばかり居ました。ただ、お嬢さんと話していると必ず君が帰って、お嬢さんは部屋を出て行くので、最初の内は助かったと思うことがよくありました。

 しかし、何度か同じことが続く内に、自分でも不思議なぐらい話ができるようになりました。すると、次第にお嬢さんに興味を持つようになりました。いつしか、それが胸の高ぶりとなり、今まで経験をしたことのないような気持ちになりました。これが、君が良く話していた恋と言うものかと気づきました。

  そして、ついに自分では抑えきれなくなりました。どうしていいかわからなくなりました。相談できるのは親友の君しかいません。自分は君の部屋のふすまを開け、つかつかと入って火鉢の前に座り込みました。ここまでの行動は衝動に動かされたものでした。そこで自分は一瞬ためらいました。言おうとするのですが、自分でも自分の口を動かすことができませんでした。しかし、自分のお嬢さんへの思いは自分の重い口を開かすほど募っていました。ポツリポツリと自分の思いを述べ始めました。あの時、自分にもう少し余裕があって、君の表情に注意していたなら、君をここまで苦しめることはなかったと思います。しかし、あの時の自分には君がどんな気持ちで自分の話を聞いていたか、考える余裕など全くありませんでした。それほど必死でした。

 自分は節欲や禁欲は無論、たとえ欲を離れた恋そのものでも道の妨げになると思っていましたが、実際に恋をしてみるとその不思議な力に逆らうことはできませんでした。このままお嬢さんへの恋に進むべきか、自分の道に戻るべきか迷いました。自分で自分がわからなくなりました。今まで、人の思惑など全く気にせず、こうと信じたら一人でどんどん進んでいくだけの勇気も度胸もあると信じていた自分が、こんな弱い人間だとは思いませんでした。大きな衝撃でした。こんな自分をどう思うか、また君に相談する以外ありませんでした。

 図書館で君を見つけ、散歩に誘って相談してみました。君はいきなり「退こうと思えば退けるのか」と聞いてきました。簡単に恋を諦められるぐらいなら相談などしません。自分はただ「苦しい」としか答えられませんでした。すると君は「精神的に向上心のない者は、ばかだ」と言い放ちました。房州を旅行している時に自分が君に言ったままを返されたのですから、この言葉はこたえました。君はもう一度同じ言葉を繰り返しました。その言葉で自分はようやく自分を取り戻すことができました。自分は確かにばか者でした。君の前に醜態をさらしている自分が大変恥ずかしくなりました。もうこれ以上お嬢さんの話をすることが耐えられなくなって、「もうその話はやめよう」と君に言いました。すると君が物凄い勢いで何か言いましたが、自分は動転しているのではっきり聞き取れませんてした。ただ、「覚悟」という言葉だけは耳に残りました。自分は「覚悟」という言葉を繰り返しました。恋をやめて自分の道に進まなければならないと思いました。しかし、もう自分にはそんな資格はないという声もどこかから聞こえてきます。また、このけじめをどうつけるのかという声も聞こえてきます。自分には覚悟が必要だと漠然と思いました。でも、何を覚悟するのかはっきりとはわかりません。自分はただ「覚悟─覚悟ならないこともない」と夢の中の独り言のように口走りました。その時、自分の脳裏の片隅に自殺という言葉もあったかもしれません。

 下宿に帰って、もう一度昼間のことを思い出してみました。自分の中で恋をやめる覚悟だけははっきりしていました。そして、もう一度自分の道をやり直したいという強い気持ちもありました。「精神的に向上心のないものはばかだ」、そう思うと非常に落ち着いた気持ちになりました。でも、いつも穏やかな君が、なぜ険しい顔つきをして言ったのかと考えた時、自分ははっと気がつきました。君もお嬢さんが好きだったのだ、それなのに自分はお嬢さんへの思いを君に相談してしまい、君を苦しめていた。

 とにかく、君に謝らなければならない思いました。そして、君はきっと悩んで苦しんで寝られない夜が続いているのだろうと思って、君の部屋のふすまを開けて君の名前を呼びました。ところが君は安らかに眠っていました。自分は謝るきっかけを失ってしまいました。目を覚まして「何か用か」と聞く君に対して、「たいした用でもない」と言ってしまいました。翌朝、もう一度君に「近頃は熟睡できるのか」と聞いてみました。学校へ行く途中で、君から恋についての相談ではなかったのかと聞かれて、自分はそんな未練がましい人間ではないという自尊心から、思わず強い調子で否定してしまいました。あの時、君に謝っておくべきだったと今でも後悔しています。

 あれから第三の道を探して生きることは非常に強い意志と実行力を必要としていました。第三の道とは、今までの自分の信条であった厳格主義と完全主義に貫かれた古い武士道の精神と、自由と独立と己を追究する新しい個人主義の精神の融合です。今までは自分一人で追究してきましたが、今は自分に厳しく注意してくれる君という信頼できる親友がいるという強い心の支えがありました。ただ君の協力を得るには、まず自分から君に謝らなくてはならないと思っていました。何度か機会はあったのですが、自尊心が邪魔をしてなかなか実行に移せない自分にいらだちを覚えたこともありました。

 そんなある日、奥さんから君とお嬢さんの婚約の話を聞きました。君がお嬢さんを好きであることはすでに気づいていましたから驚きませんでした。勿論、君が自分を裏切った、お嬢さんを取られたという恨みは全くありませんでした。ただ、自分が君をそこまで追い込んでいたことに驚いたのです。同時に、自分が上野公園で言った「覚悟」を、君がお嬢さんとの恋に進むと誤解していたことに驚いたのです。唯一の理解者だと思っていた君さえ自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。寂寞だったのです。自分はとうとうこの世にたった一人で生きているような気がしました。

 もはや自分の居場所はなくなりました。このまま下宿を立ち去ればいいのでしょうが、自分には行く所がありません。この苦しみから救ってくれる最も楽な方法、それは自殺しかない。自殺だけが自分の前に自由に通れる道を開けていました。しかし、この家で自殺すれば、君や奥さんやお嬢さんに迷惑がかかると思う気持ちが自分を引き止めました。なんとか、生きる道を探し出そうと試みました。

 しかし、とうとう精も根も尽き果てました。自分は弱志薄行で、行く先とうてい望みのない人間です。できるだけ迷惑をかけないように遺書を書いて死ぬつもりです。お嬢さんの名前は、君とお嬢さんの今後に迷惑がかからないように書かないつもりです。また、お嬢さんには、血を見せて残酷な恐怖を与えたくありません。純白なものを純白なまま残しておきたいというのが、自分の唯一の願いです。君が最初に発見してくれるように、仕切りのふすまを開けておくつもりです。そして君の寝顔を見て、心の中で最後に君に謝まることができるでしょう。考えてみれば、どうして今まで生きていたのだろう、もっと早く死ぬべきだったのかもしれません。「覚悟」という言葉を口にした時に死ぬべきだったのかもしれません。いや、お嬢さんに恋をして自分の道を踏み外した時かもしれません。いや、その自分の道そのものが間違っていたとしたら養家や実家に背いた時点で死ぬべきだった、いやこんな薄志弱行の自分が生まれてきたこと自体が間違いだったのかもしれません。